【SS】怨霊の元祖?「早良親王」

現代ではあまり考えられないが古代では呪いや祟りと言われる話は多い。その中でも非業の死を遂げたあと怨霊となり自分を酷い目に遭わせた人たちを次々と死なせまくったとして平安時代頃に有名になるのが早良親王、平将門、菅原道真、崇徳上皇の4人ではないだろうか。

早良親王の生涯
早良>(数え年で13歳くらい)「ボク、帝の子どもだけど母上の身分も低いし自分が帝になることもないだろうから出家するよ!」

20年後、兄の桓武天皇が即位
桓武>「あのさー、お願いがあるんだけど」
早良>「何?」
桓武>「普通ならこのまま俺の息子を皇太子にするところなんだけど。まだ小さいからさ、俺に万が一のことがあったとき何もできないと思うんだよね。だからとりあえず皇太弟になってくれない?」
早良「そういうことなら仕方ないね。還俗するよ」

しかし4年後
桓武>「俺が重用してた藤原種継を殺したな!? 許さん」
早良>「誤解だって。そんなことしてないよ!」
桓武>「問答無用。こいつを捕らえろ」
→乙訓寺に送られる。

早良>「無実を証明するために絶食する」キッ

桓武>「あいつの顔なんか見たくもない。淡路に流せ!」

早良>「だから知らないって言ってるのに…。絶対に許さない」バタッ
途中の河内で絶命。

桓武>「葬るのも淡路にしろ」

怨霊としての早良親王
怨霊としての功績(?)
死亡
桓武天皇の妃3人
高野新笠(桓武天皇と早良親王の生母)←なぜ?
発病
安殿親王(早良親王廃嫡後に皇太子となった桓武の子)
その他疫病の流行や洪水の発生など

対策
陰陽師や僧を淡路の陵へ派遣し陳謝
「崇道天皇」の名を追称
遺骸を奈良へ移して葬る

怨霊から御霊(ごりょう)へ
結局桓武天皇は当時まだ造営中だった長岡京を放棄して平安京への再遷都を行っている。今回発端となった種継暗殺事件も長岡京遷都に関する反対派を制しきれなかったことが原因だったようなのでこのまま長岡京にこだわることでさらなる祟りがあることを恐れたとも言われている。また、早良親王は抗議のため自ら絶食したのではなく桓武天皇により餓死させられたという説もある。
だがもし祟りならば桓武天皇本人ではなくその妃や母親が死ぬのかは謎だ。でもこれだけ周囲の人間が死んでいき、人々が「親王の祟りだ」と噂することでどれだけ桓武天皇が恐れたかはわざわざ陵へ「陳謝」させていることからも容易に想像ができる。
そして当時怨霊を鎮める方法とは「神へと祀り上げて御霊として崇め奉ること」だった。早良親王に送られた天皇号に「崇」の文字が入っているのもここからきているのかもしれない。
かくして早良親王は神となり京都の崇道神社をはじめいくつかの神社に祀られている。

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