水害を前提とした集落 輪中①

輪中、これは「わじゅう」と読む。
川の中洲の土地に堤防を築き、人々が移り住んだ場所をそう呼んだ。古くは鎌倉時代の文献にその言葉が見られるという。
愛知・岐阜・三重の三県にまたがる木曽三川に多く輪中集落が作られたのだが、今回木曽三川公園に行ってきたのでそこにあった輪中の農家の暮らしを取り上げたい。

江戸時代の木曽三川
独立行政法人水資源機構 長良川河口堰管理所Webサイトより

木曽三川とは木曽川、長良川、揖斐川の3つの川の総称だ。
そしてこれは江戸時代の木曽三川の様子である。どれがどの川なのかよくわからないしそれ以前の問題としてこれは川が3本と言われてもそれ以上あるんじゃないのかと疑ってしまう。しかもこの3つの川はそれぞれ水位も違い、川底までの深さも違う。
そんな地図では書き表しきれないような事情まである複雑で入り組んだ土地だった。
ひとたび上流で大雨が降れば一斉に水浸しになるのは容易に想像がつく。
そこに人々が移り住んだのだ。そこに耕せる土地があるとは言え、大変なことだっただろう。

尾張藩の御囲堤(おかこいづつみ)
また、地図の東側に「御囲堤」と書かれているのだが木曽川より東は徳川御三家の1つ、大藩・尾張藩の領地である。徳川家の肝いりで立派な堤防が築かれたのだ。そのためこの堤防が出来て以降、尾張藩の水害は激減した。一説には徳川家が自分たちの土地を守るために御囲堤より他の堤防は低くするように命令を出したとも言われている。それを裏付ける文献は発見されていないらしいが不文律として存在した可能性もないとは言えない。
いずれにせよ、東側に立派な堤防が築かれては大雨のたびに溢れ出した水は西に流れるしかない。かくして水害は更に増えていくことになる。

輪中に住むということ
木曽三川公園に展示されていたのは裕福な農家の住まいだった。
そこは納屋、母屋、水屋の3つの建物が建っていた。
こちらが母屋の全景。
土地も広い。さすが「裕福な」農家。
そしてその家屋には輪中ならではの工夫がされていた。
母屋の軒下。舟が収納されているのがわかるだろうか。
確かにここに舟があれば洪水が来たときにすぐに出せる。
中は普通の農家の佇まいだと思ったが仏壇だけは違った。
こちらは仏壇なのだが上の方に空洞がある。
仏壇の中心が紐で吊られている。
これを「上げ仏壇」という。
上げ仏壇の仕組みを説明した模型があった。
天井裏に滑車がついていて仏壇を引き上げられるようになっている。
仏壇だけはどうしても守りたかったらしい。

敬虔な仏教徒
ここに置かれていた仏壇は装飾からして浄土真宗大谷派のもののように思われた。
そう、気づいただろうか、最初に入れた江戸時代の図面の中に「長島」の地名があったこと。
この輪中地区はあの「長島の一向一揆」の起きた場所だ。
浄土真宗は以前一向宗とも呼ばれていた。この地域にその門徒が多いことも容易に納得がいく。
長島の一向一揆といえば織田信長率いる軍勢を一度は引かせた強大な一向宗の勢力だった。
最終的には信長が味方につけた九鬼水軍に囲まれ、餓死者を出し降伏を申し入れても許されず、ある城は火攻めにされて男女含めて2万人が焼き殺された。あまりに壮絶だ。
当時そこに住んでいた人々にはものすごく申し訳ないがこのような大規模な一揆を起こした生き残りが住んでいる土地だと考えると御囲堤が出来て以降水害が増えても宝暦治水(1754年から行われた大規模な治水工事)が行われるまで大がかりな対策もされず放っておかれたことも納得がいくような気がしてしまった。
徳川家康は「百姓は生かさず殺さず」と語ったそうである。まさにその政策どおりではないか。ちなみに浄土真宗の勢力を削ぐため内部争いに乗じて大谷派と本願寺派に分けさせたのも家康である。
キリシタンは弾圧しまくった徳川幕府だが日本一門徒が多いといわれる浄土真宗を弾圧してしまっては農民がいなくなってしまう。まさに微妙な舵の切りどころだったに違いない。
うまいことやったな、というのが素直な感想だ。

長くなってしまったので今回はここまで。水屋に関してはまた次回にしたい。

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