水害を前提とした集落 輪中②

前回は母屋までの解説で終わってしまったので今回は通常の農家では見られない輪中特有の建造物である水屋を見ていきたい。

緊急避難所 水屋
江戸時代は年貢の取り立てはしてもなかなか農民のために行政が動くことはなかった時代だ。
今ならネットで「藩主消えろ」「家老全員終了のお知らせ」と不満が噴出しているに違いない。
しかし当時は民主主義ではなく、そんなこと言えなかった時代だ。自分の身は自分で守るしかない。
そしてその中で生み出されたのが水屋だ。高く石垣を積み、川の氾濫にも耐えられるようになっている。
手すりは後付けされたのだろうがかなり立派な建物である。
 中は2部屋あり、向かって左が畳の間。
向かって右が板の間になっており、米びつや長持などの簡単な家財道具が置かれていた。
奥の方に米俵も見える。
また入ってすぐの土間の片隅には瓶(かめ)も並んでいた。
あと、個人的に気に入ったのはトイレがあったこと。
そうだよね、絶対必要だよね、と共感しまくっていた😁
それにしても畳の間はきれいに清掃されていたのにここはなんで全然掃除された形跡がないんだろう。トイレの神様が見たらきっと怒り心頭だ。

見たところしばらく暮らせそうな備えはある感じだった。
もちろんこんな立派な水屋が各家庭で建てられるはずもなく、近所の人や親戚が総出で建てた。
つまり、洪水が来たらその人たちが皆避難してくることになる。
食料もそんなに持たなかっただろうしかなり狭かったに違いない。だが一時避難所としては十分な機能を持っていると思った。

輪中の堤防
輪中の成立初期、堤防は上流の方にしか作られておらず下流はそのままだった。確かに水害は防げて万が一浸水したときもそのあとの水はけは良さそうだから合理的にも見える。でもやはり大洪水のときは上流の水を防いでも下流から水が来てしまうので最終的に下流にも堤防が作られ、文字通り「輪」となった堤防で囲まれた輪中ができたのだ。
そのときもきちんと下流には排水用の門が設けられており、川の水が増水したときには閉めて浸水を防いでいた。ただ門の部分はやはり堤防としての機能は弱くなる。たくさん作るわけにもいかないから排水の問題も輪中にはあった。

輪中の争い
ここまで見ると「輪中の人たちは助け合って水と戦っていた」というイメージが強いがそうでもないこともあったようだ。
先程も述べたように排水できる門などが限られているので汚水(当時は悪水と呼ばれていた)の問題も争いの種になった。特に下流は水が溜まりやすいので上流地域から遠慮なく汚水が流されてきたら腹も立つだろう。深刻な所では上流地域と下流地域の間にさらに堤防が築かれたことさえあったという。まさに輪中の中の輪中である。

さらに近隣の輪中とはあまりいい関係ではなかった。
理由は簡単だ。

「あっちの輪中の堤が切れてくれれば自分たちは助かる」

大雨が降って生きるか死ぬかの極限状態にあったとき、最後に自分たちの身内を守りたいと思うのはごく自然なことだとは思う。
近くの輪中の堤防が切れれば確実に水位が下がる。
どんなに仏壇を上げても、水屋を作っても、やはり洪水など来ないに越したことはない。家は水浸しになるし農作物への被害も甚大だ。死活問題になる。
ひどいと別の輪中の堤防を破壊する者さえいたという。無論当時でも大罪だ。
それほどまでに必死だったのだ。


輪中の農家を見てきて、「水との共生」が治水技術も未熟な当時の人にとっていかに難しいことかを改めて思い知らされた。
これでは「生かさず殺さず」どころか瀕死の重傷じゃないかと思ったがそれも当時のやり方だったのかと思うと農民に厳しい時代だということを痛感する。
ただ、農業は水なしでは行えないしそれ以前の問題として人間も水なしでは生きられない。
そして水とも、近隣の別の輪中とも、そして輪中内でも争わなければならなかった過酷な環境を生き抜いた、当時の人たちが確かにそこにいたのだ。
明治になって大規模な治水工事が行われて河川は劇的に姿を変え、洪水による死者も激減した。もはや彼らの見ていた景色と同じ物を見ることさえ現在ではかなわない。それでもこうやって遺されていく物が確かにそれを伝えている。
それが歴史というもののすごいところなんだと思う。

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