皇室への襲撃事件

昨日が天皇陛下ご成婚60周年ということで各局で両陛下の特集が組まれていた。
そこでご夫妻は皇太子時代に何度か襲撃を受けられていて苦難も多い60年だったと。
少なくともここ最近は聞かないような事件だ。
なぜそんなことが起こったのか。今上天皇を襲撃した事件を少し考えてみたいと思った。

ご成婚パレード投石事件
1959年4月10日。皇居から東宮御所まで馬車でパレードされた際、少年(当時19)が投石し、さらに馬車によじ登ろうとしたが警官隊によって逮捕された事件。
のちに2年の保護観察処分。

日光皇太子襲撃事件
1972年1月6日。東武日光駅にて美智子さまが御料車から出た瞬間少年(当時18)が突進してきた事件。皇宮護衛官によって事なきを得た。
少年は社青同解放派という新左翼の構成員で天皇制を打倒したいと望んでいた。
のちに保護観察処分とされる。

ひめゆりの塔事件
1975年7月17日。新左翼派と共産主義者同盟による襲撃。
白銀病院で患者と見舞客に扮した活動家が病院の下を通過した両陛下の車に「皇太子帰れ、天皇制反対」と叫びながらガラス瓶やスパナ、石などを投げた。
のちに懲役1年6か月の実刑判決。
またひめゆりの塔では11日からひめゆりの壕に潜伏していた活動家が皇太子の足元に火炎瓶を投げつけた。
のちに懲役2年6か月の実刑判決。

国体開会式発煙筒事件
天皇即位後の1992年10月5日。過激派メンバーの男がトラックからロイヤルボックスにいた天皇に発煙筒を投げつけた。
その場で逮捕された。

ざっと調べただけでも以上4つの事件が見つかった。ご成婚のパレードの時点で襲撃されるなんて美智子さまもさぞご不安だっただろう。
しかし、襲撃されるということはそれなりの理由があった、ということかもしれない。
またこれだけ何度も事件が起きていながら皇太子であった頃の今上天皇が裁判所へ証人として出廷したという話もない。これを法律をも超越した存在と見なすかそれとも被害者として声を上げる権利を奪われたと見なすか。
いずれにしろ天皇の前では「法の下の平等」さえ風の前の塵に同じなのだ。

天皇制の光と影
一連の事件で何度もでてきたのが「天皇制反対」という言葉だ。
今となっては表立って聞かなくなった言葉である。
まだ日本全体が貧しかったころにその国民から搾り取った税金できらびやかなご成婚パレードなどされては納得できない人も多かったことだろう。
敗戦が色濃かった時代から高度経済成長が始まっていく頃の日本では過激派や学生による活動が活発に行われておりまさに今にはない熱気あふれる時代だった。
戦争経験者の多くは「現人神」であった天皇という存在を忘れられずにおり、一方で自由な思想が許されたことによってそれに反対する人々も堂々とその主張を展開した。
天皇の戦争犯罪は裁かれていない。東条英機をはじめA級戦犯はほとんど絞首刑にされたのに天皇だけが身柄を拘束されることもなくただそこにあった。遺すしかなかったと王制のないアメリカでさえ判断したのだ。
確かに世界でも類を見ない古い家柄に対する崇敬の念はわかるがそれにより戦争で家族を殺された人々の怒りと悲しみもまた忘れてはならないものだ。
そしてその怒りは二度と戦争を起こさないという誓いの原動力となるはずだ。
もう天皇は「いるのが当たり前」の時代となって久しい。それは戦争の記憶が薄れていっていることも一因だろうが、国民とともにあろうとした今上天皇が作り上げてきたものがこの平成でようやく形になったということか。

天皇の退位に伴い、今上天皇は5月から1年半高輪皇族邸に仮住まいされる。そこの改修費が両陛下のご意向で8億4千万から5億円台に縮小されたという報道が少し前に流れた。縮小されても5億はかかり、しかもそこにずっと住むわけにはいかないらしい。ちょっと庶民には意味がわからない。
すでに建っている建物を改修するだけなのに豪勢なことである。そして5億かけても1年半しか住まないことが国民の目にどう映るのか政府や宮内庁はわかっているのだろうか。
いつか国民と宮内庁の考えが乖離したとき、「天皇制反対」の声が再燃する日が来るのかもしれない。

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