明治の脱獄王 五寸釘寅吉の脱獄の信憑性

この前明治村に行ってきたのだが帰って写真を見返していると金沢監獄跡で撮った写真が異様に多いのに気が付いた。余程気に入ったらしい。
せっかくなのでこの頃の監獄とそこから何度も逃げたとんでもない脱獄犯について書いてみたい。
明治村の監獄の一室(人形つき)

明治時代の監獄成立について

日本初の近代的様式の監獄が作られたのは明治7年の鍛冶橋監獄(現在の市ヶ谷刑務所に引き継がれる)だ。
明治村にあった金沢監獄は明治40年なのでかなり後ということになる。
また、受刑者の処遇について定めた監獄法が制定されたのは明治41年(1908年)のことである。それまでの監獄則では監獄とは何たるかを述べるにとどまっているようなのでここでようやく受刑者にも人権があると認識されるようになったということだろうか。
ちなみにこの監獄法は2006年まで通用していた。それはそれですごい。

脱獄犯 西川寅吉(1854-1941)
最初の脱獄まで
彼の初犯は14歳。叔父が博打の揉め事で殺されたのでその仇討のために刀で襲い掛かりさらに家に火をつけた。
無期懲役となり地元三重の牢獄へ。ここでは罪状が仇討であったということやまだ若いということもあり他の受刑者にかわいがられたという。しかし仇討の相手が生きていることを知ってしまったので受刑者の力を借りて脱獄。

2度目の脱獄まで
残念ながら(?)寅吉は仇討の前に捕縛されてしまう。そして三重で再度牢獄入りするがまたしても受刑者の力を借りて脱獄。

3度目の脱獄まで
賭博師として全国を渡り歩いていた(仇討はどうなった)が再度捕縛。今度は秋田の集治監(徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する)から脱獄。

4度目の脱獄まで
秋田から故郷の三重に帰るため逃げている途中の静岡で博打にかかわる揉め事に巻き込まれ、警察にも追われる。逃げる途中で五寸釘を踏んでしまったがそのけがを負ったままさらに十数キロ逃げた。静岡まで来た体力もすごいが五寸釘といえば丑の刻詣りで有名な15cmはある太い釘だ。それが刺さっていても走れる忍耐力も相当だ。
そのため「五寸釘寅吉」の異名をとる。犯罪者に対して不謹慎だが仕事人みたいで格好いい。(仕事人も堅気ではないが)
捕縛後東京の小菅に送られ、さらに北海道の樺戸集治監に送られた。
しかしその後明治20年の夏に濡らした獄衣を塀に叩き付けた一瞬の吸着力を利用するという驚異的な方法で脱獄。

5度目の脱獄まで
今日札幌に現れたかと思うと次の日は留萌にいた、と言われており捕縛人を翻弄。この2都市間は137km離れており(byグーグルマップ)普通の人の足なら夜通し歩いても28時間はかかる。自分の足で移動したとするならとんでもない脚力だ。盗んだ馬でも使ったんだろうか。しかも豪商の蔵から盗んだ金を博打に使う一方で貧しい人の家に投げ込むというねずみ小僧的な一面も。人々にはもてはやされたそうだ。
しかし半年後、釧路の賭場で捕まる。
だが今度は除雪作業中に脱獄。

6度目の脱獄まで
3ヶ月後に函館で捕まり、再び樺戸へ。
今度は仲間が食事の中に紛れさせた特製の合鍵を使い脱獄。

7度目の脱獄まで
捜査の裏をかいて北海道を脱出。そのまま大阪にも行ったが最終的に九州で捕まり北海道に戻されて空知集治監へ。
しかしここも間もなく脱獄。

最後はおとなしく服役
だが最後の脱獄は1週間で捕まってしまう。このとき既に40歳で体力の限界だったと言われている。
あの有名な網走に収監。
その後は逆に模範囚レベルに真面目に服役し71歳で仮出所。

寅吉にとっては監獄におとなしく収監されているのは馬鹿みたいなことで脱獄こそ常識だったとしか思えない。
明治45年に竣工された網走の中央見張所 寅吉もこの建物に見張られていたのだろう

「三重の牢獄」と「無期懲役」
気になるのは最初の脱獄だ。
・年齢と時代的背景に関して
1854年生まれの寅吉が14歳となると数え年か実年齢か年号がはっきりとしなかったので定かではないが1866〜1868年にかけてのことである可能性が高い。つまり明治維新の前後ということになる。明治政府樹立前ならば彼が裁かれたのはお白州とかそういう場所なのだろうか。

・地名に関して
Wikipediaにも「三重の牢獄」という記述があったが廃藩置県前なのに地名が伊勢ではなく三重であるのは不自然に思われる。

・無期懲役に関して
江戸では15歳未満の火付けは死罪にはならず遠島となっていたはずだ。(1723年)
そもそも江戸時代には懲役刑がなかったので未決囚などを入れておく牢屋はあっても懲役刑を行うための収容施設は存在しない。
それなのに無期懲役とはどういうことなのか。当時の法度と合わない気がする。
また寅吉が「まだ若い」と言われていたということは大人も子ども一緒に入れられていた可能性がある。
14歳以下の男女に対して過怠牢(かたいろう)という刑罰は江戸時代にもあったようだがそれでは14歳は最年長になるので「まだ若い」と言われるはずがない。
そもそも監獄法制定以前の監獄則についても明治5年の成立なのでそれ以前に懲役刑が存在したかが疑問である。

創作の可能性について
ここでもう一点気になるのが寅吉の出所後である。すっかり有名になっていた彼は様々な興行師に利用され「五寸釘寅吉劇団」として一座を組み、全国を巡業していたという。
劇団で演じるとなるとそのエピソードは大きければ大きいほどいい。そのために「初犯は14歳でしかも脱獄」という仰々しいストーリーが必要だったため創作されたのではないか。それであれば叔父の仇がどうなったのかわからない点も納得がいく。もしかしたら最初の2度の脱獄はなかったのかもしれない。
そう考えるほうが余程自然なのではないかと思われる。

昭和の初めには息子に引き取られて平穏な余生を送ったというがこのエピソードがすべて真実だとしたら逃げ回っている時間が長すぎて結婚している暇など果たしてあったのかと思ってしまう。
幕末以降に関しては細かい点まで資料が多いのに(もちろん龍馬暗殺や北京原人の化石紛失など謎はあるわけだが)昭和の初めまで生きた人にこのような「伝説」があるのはかなり珍しいように思った。

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