新元号「令和」 万葉集には庶民の歌も多数

新元号が発表されたが万葉集から選ばれた元号は史上初だそうだ。
今までは中国の古典から選ぶことが多かったそうだがきっとそれがもう大昔からの習わしだったのだろう。
それをやめたのはある意味すごいが万葉集という政治や歴史の書物ではなく歌集から選ばれたというのも今の時代を反映している気がする。
ただ今後の元号も「古典から引用」しばりがあるとすれば日本には残念ながら「古典」と呼べる文学が中国ほど多くはない。日本には孔子も孟子もおらず、李白も杜甫もいないからだ。そして日本の歴史は中国のそれほど長くはない。中国で孔子が人の道を説いていたころ、日本人は竪穴式住居に住みゾウやシカを追いかけて走り回っていたことだろう。

万葉集の成立時期
万葉集はその成立時期で1期から4期に分けられるが大体7~8世紀の成立である。これは古墳時代から飛鳥時代をまたぎ、奈良時代に差し掛かるくらいまでだ。仏教が伝来し、文化でいうと天平や白鳳文化が花開いた頃でもある。
まだ中国からの影響は色濃い時期だが初めて日本の文化というものが見えてきた時代だ。ようやく政治が安定してきたということだろう。
また、今回梅の花の詩の序文にある「時、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す」から引用したというがなんとも美しい情景の浮かんできそうな表現だ。
天気のよい風もない春の日に梅の香りを楽しむ、今の桜の花見のように馬鹿騒ぎする人もいなかっただろうからなんとも風流なことである。世の中が平和になったことがよくわかる。

幅広い身分の歌
万葉集の注目すべき点として忘れてはいけないのが天皇や貴族からはもちろん、防人を代表とする庶民の歌も入っていることだ。防人の歌といえば「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」という歌があまりにも有名である。防人に来るために母親もいない子どもたちを置いてきてしまったという歌だ。
万葉集の編纂者は諸説あるがいずれも名の知れた貴族と言われている。つまり為政者だ。それが「防人とか来たくなかった」という制度を批判しているともいえる歌を選んだこと自体がすごい。
ただ単に防人の制度ができたのが大宝律令の701年頃、防人の詠んだ歌を集めさせたのが755年頃といわれているので自分たち側の人間が防人に行かせていることも忘れ、「防人たちはなんてかわいそうなんだろう、よよよ」と涙しながら編纂していたとしたらどうかしてるとしか思えないが。
それでも当時の庶民の暮らしなどがわかる第一級の資料であることは間違いない。

なんにしろ政府が最終的に選んだのが初めて日本の独自文化が作った和歌集である万葉集だったということは面白いと思った。

0 件のコメント :

コメントを投稿