謎すぎる伊勢の「神宮」② なぜ伊勢なのか

神宮はいつから存在するのか
伊勢神宮の成立年は垂仁天皇26年とされている。(まだ元号のなかった時代なので天皇の在位年数を元号の代わりに用いた)それをもって二千年以上の歴史があると神宮の公式サイトにも書かれているが果たしてそうなのか。
日本書紀によると垂仁天皇は第11代天皇で在位年数が99年、崩御時の年齢が140歳である。神宮の二千年とは同じく日本書紀の記述から採用しているようだがこの崩御の年齢を見てもとても真実とは思えない。
なんで日本書紀の編纂者はもうちょっと信憑性のある数字にしなかったのだろう。天皇は長生きすればするほど偉いとでも思ってたのだろうが結果的に数字だけ見れば「これはないな」と誰でも気づいてしまう。日本書紀の後半の方は歴史書として非常に重要だが前半は怪しすぎる。
出土品などからの調査によると5世紀後半以降とする説があるようだ。神宮の記述と500年も差がある。「この年に初めて伊勢に神宮が造営された」という信憑性のある歴史書がない以上5世紀以前に伊勢に神宮はなかったと言い張ることもできないが公式サイトに歴史的な裏打ちのない年数を書いているというのも結構すごい。でも事実のみを書けと言われてしまったら神はいるのかいないのかという話になってしまうので神話は神話でいいのかもしれない。

伊勢にある理由
残念ながら確定的な説はない。言い換えれば歴史書が書かれる以前から存在していたということにはなるのだろう。
しかし都が奈良にあった頃には成立していたと思われるのに奈良から伊勢は結構遠い。交通手段が徒歩や馬であった頃はなおさらだ。
それでも伊勢を選んだ理由が何かあったはずだ。
いくつかの説を挙げてみたい。

水銀説
伊勢は当時重要視されていた水銀の産地だったことに由来する説。水銀は腐敗を防ぐことから当時は不死や再生の象徴とみなされていたのでそれを神の存在と結びつけた。

太陽信仰説
伊勢は東に海があり太陽神とされるアマテラスの鎮座するに相応しい場所であるとする説。

中部への抑え説
5世紀といえば古墳時代なのだがこの時代、大和朝廷は有名な「前方後円墳」を作っていた。だが中部地方以東には「前方後方墳」という前も後ろも四角い別の古墳が作られていたため、別の国家が存在しておりそこへの抑えを伊勢に置いたという説。ただし関東地方でも前方後円墳は少数派だが存在しているし逆に大和朝廷の本拠地である奈良にも前方後方墳が存在していることから古墳の形状の違いは身分の違いなのではないかともいわれている。
ただ、日本最大の前方後方墳は奈良県天理市にあるので目の前に侵略者がいたことになる。伊勢に抑えを置いている場合ではない気はする。

「まつろわぬ民」侵略説
まつろわぬ民(=大和朝廷に従わない民族)である出雲など侵略してきた民族が西日本に多数いたがその人々が八咫鏡を狙っていたので彼らから隠すために伊勢に遷したとする説。

伊勢・熊野拠点説
日本書紀にも記述がみられるようだが大王(おおきみ)が東征する際、淡路で撃退されてしまったので一旦海を渡り伊勢と熊野を拠点として奈良に攻め込んだ。奈良を手に入れるときに非常に活躍した場所なので聖地としたという説。

他にも様々な説がある。
だがいずれにしろなぜ鏡だけなのか。この時代鏡以外の神器、特にのちに熱田に置かれることになる剣は成立前だったということになるのか。それとも剣を手元においておかなければならない理由が別にあったのか。国は平定されていなかったのか。太陽神の象徴である鏡だけは別格だったのか。確かに鏡は皇居にある形代すら動かすことを許されていない。先日行われた「剣璽等承継の儀」でも鏡はその場になかった。それを考えると剣を遷した先が熱田神宮であったことも謎だ。さらに都から遠くなっている。
真実が定かではないからこそ様々な説が生まれた。それはそれで面白いと思った。

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