【SS】「三種の神器」の受難①

数日前のニュースで天皇皇后両陛下が伊勢神宮を参拝され、親閲の儀を行われたと伝えられた。
「中央は神様の通り道」と言われていたような気もする宇治橋の真ん中を御料車で通っていかれるのも驚いたし(未だ現人神であらせられるのか、自分の先祖なんでまあいいということになるのか、謎すぎる)そもそも橋の入り口には「下乗」と書かれていたと思うがそれにも例外があったということだし全てを橋を渡るだけで天皇は超越してしまっていた。
そして今回は「三種の神器」のうちの剣と勾玉を随行されていた。
なんで2つなんだと一瞬思ったがそもそも伊勢神宮の御神体が鏡だったということに思い至った。皇居に置いてある方がもともとダミーのようだ。ちなみに剣もダミーで本物は熱田神宮の御神体である。
大変立派な箱に入っており、もう箱自体が重要文化財なんじゃないかとも思ってしまうがそこは皇室、中身は今生きている人間は誰も見たことがないし開けることも許されない神秘の箱なのである。中身が見れないし天皇の持ち物とあっては文化財認定もしようがない。
「絶対こっそり開けてる奴いるだろうし最悪中身入れ替わってても本物見たことないんじゃ誰にもわからんだろうな」と思ってしまうのは庶民の浅はかさなんだろう。

皇室の「隠す」を美徳とする文化
もともと天皇は庶民の前に姿を見せることもなかったしましてや「お言葉」を発することなどあり得なかった。
今の皇室の姿を見たら古代の天皇などは「何という屈辱!」と叫んで憤死しかねない。(もう死んでるけど)
明治以降、庶民の前に姿を表すようになり、第二次世界大戦敗戦の「玉音放送」で初めてその声を庶民に聞かせた。
彼らは「隠す」ことでその神聖性を保ったのだ。
神武天皇が実在しなかったのだから隠さなければならないことはその成立初期から山積みだったに違いない。それが積もり積もって何でも隠しておいた方がいいとなってしまったかのようだ。
そしてそれに倣ってか、三種の神器もその形を誰も見たことがないものとして受け継がれてきた。

そもそも三種の神器とは
八咫鏡(ヤタノカガミ)と八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)
アマテラス>「あーもうやってらんない。弟のスサノオとかほんとどうかしてるし。田んぼ踏み荒らして挙句の果てには漏らしたって何なの? ちょっと頭冷やしてくる」
 天の岩屋戸バタンッ
>「えっ、ちょっと待っ…。行っちゃった」

>「アマテラスいなくなってからなんか毎日暗くない?」
>「あー、あのお方太陽神だからね。いなくなったら暗くもなるわ」
>「でもそうなると野菜も米も何も育たないんじゃ」
>「うん。ちょっといろいろやばいかも」

天の岩屋戸前
その他大勢>「アマテラス様、そろそろ出てきてください」
アマテラス>「いやっ!」

八百万(ヤオヨロズ)の神>「このまま真っ暗なままだと…そろそろやばいな。どうしようか」
常世思金神(トコヨノオモイカネノカミ)>「常世長鳴鳥(トコヨノナガナキドリ)を啼かせてみては? 朝だと勘違いして出てくるかも。あとは…」

オモイカネ>「ちょっと鏡と玉作ってくれる?」
伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)>「わかった。八咫鏡作るわ」
玉祖命(タマノオヤノミコト)>「じゃあ私が八尺瓊勾玉作る」→三種の神器のうち2つが完成。

オモイカネ>「じゃあこの鏡と玉を榊につけて。あと布帛もつけようかな。じゃあちょっとこれ持って」
布刀玉命(フトダマノミコト)>「わかった」

オモイカネ>「じゃあそろそろやるよ。天手力男神(アメノタヂカラオ)はアマテラス様が顔出したら待ち伏せてすぐ引っ張り出してね」
タヂカラオ>「やってみるわ」

天の岩屋戸前
オモイカネ>「行くよ」

トコヨノナガナキドリ(=鶏。朝を知らせるからそう呼ばれたっぽい)>「コケッコーーーーー!」
アマテラス>「…何あれ。意味わかんない」|д゚)チラッ

オモイカネ>「天宇受賣命(アメノウズメ)、踊って踊って!」

ウズメ、見事に踊る。

アマテラス>「わたしがいないのになんであんなに楽しそうなの」
ウズメ>「あなた様より尊い神が現れたので楽しくて踊ってるんですよ」
アマテラス>「えっ、誰よ? …よく見えない」ズイ

タヂカラオ>「アマテラス様、すみませんっ」グイッ
アマテラス>「きゃあっ、…引っ張り出されちゃった」

一同>「もう入らないでください!」
アマテラス>「わかったわ。もうやめる」
こうしてアマテラスが天の岩屋戸に引きこもったときに出てきてもらうため、玉と鏡は作られたとのこと。

→次は最後の1つの三種の神器、剣の話から!

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