学問の神様も怨霊だった②

官位の回復
ちなみに前回書いた保明親王の薨去した923年にもう十分祟りを畏れた貴族たちによって右大臣と正二位の官位を贈られている。生前の官位では従二位までだったので生前の位を越えてしまっているがそんなことで怒りは鎮まらなかったようだ。しかしその2年後に慶頼王が卒去しているのでもう宮中は万策尽きていたに違いない。

関係ないが高名な平安時代の陰陽師安倍晴明は921年生まれなのでこの頃はまだ幼児である。とても怨霊と太刀打ちはできなかっただろう。

清涼殿落雷事件
930年(この時点ですでに死後27年が経過しているが菅公の怒りは収まらなかったようだ)、この年は干害が続いており雨乞いを行うか清涼殿で論じられていた。清涼殿といえば天皇の居所である。
しかし干害の年だったにも関わらず突如愛宕山の方から黒雲が立ち込め雷雨となった。しばらくののちに清涼殿に雷が落ちたのである。
この落雷で死亡したのが藤原清貫、平希世。そしてさらに落雷はもう一度清涼殿を直撃し公卿や近衛兵が死亡した。
本来宮中とは最も穢れとは無縁であらねばならない場所であったにも関わらず宮中内、それも清涼殿で死者が何人も出てしまったのである。
ここで貴族たちのとった驚きの行動は怪我人の救護より死の穢れをいかに早く宮中から追い出すかを優先させたことだ。負傷者をほっぽり出して死体の搬出をしていたとか現代のようにトリアージしていたら絶対にありえない。これでは助かるものも助からない。
ピンポイントで清涼殿に二度も雷が落ちたことで人々は「菅公の祟りだ」と言い合った。
かくして菅公は雷神として人々から畏れられる存在として確立したのである。

そして清涼殿に居住していた醍醐天皇は雷の直撃は免れたのだが目の前で起きた天皇の身分であれば生涯無縁であるはずのとてもありえないような惨劇がよほどショックだったようで2か月後に崩御している。
「菅公の祟り」はとうとう現役の天皇にまで及んだのである。
当時の人々にしてみれば畏れない方が無理だったに違いない。

怨霊から神へ
道真が没した大宰府では919年に墓所に安楽寺天満宮が竣工されている。この天満宮という名称は今でこそ菅原道真の代名詞のようになってい待っているが本来は天皇や皇族を祀る際に用いられるものでそれを臣下に与えたことからしても菅公の祟りは強力だったのだろう。
そしてさらに京都に北野天満宮が942年に少女に託宣が下り、5年後にも同じことがあったとして造営されている。すでに死後40年超だが、死後100年ほどは災いが起こるたび菅公の祟りと人々はささやきあったらしい。

祟りとは科学的にいってしまえばありえないのかもしれない。しかし人々がそれを信じ、実際に怨みを抱く相手に災いが降りかかれば確かにそこに祟りは「あった」のだ。
「あるといえばある、ないといえばない」。それだけのことなのだが祟りや怨霊を信じる当時の人々が「学問の神様」を創り出し、現代でも受験シーズンに人々がそこに願掛けに訪れている。
怨霊の根は深い。

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