学問の神様も怨霊だった①

結構有名な話ではあるが学問の神様として現代でも名高い菅原道真公だが、彼はその死後、怨霊として畏れられた存在だった。
受験シーズンになると参拝客が殺到する九州の太宰府天満宮は菅公の左遷先であり京都の北野天満宮は藤原氏から寄贈された土地である。

道真はなぜ左遷されたのか
まず第一の原因は「生まれが藤原氏じゃなかった」ことだ。平安時代と言えば藤原氏の時代(もっといえば藤原北家の一人勝ち状態)である。そこに藤原氏ですらない道真が出てきて、しかも賢いし天皇家との姻戚関係もどんどん進めていく。藤原氏にとっては自分たちにとって代わられるかもしれないとも感じただろう。とんでもない脅威だ。
もともと菅原氏は政治家ではなく学者の家柄だった。それがトントン拍子に出世していき左大臣に次ぐ官位である右大臣にまで上り詰めてしまったのだから面白くない貴族は多かったことだろう。
そのために中央から追い出されてしまったのである。どこにでもありそうな話だ。
ただ、菅公が本領発揮するのはここからなのである。

梅の木に歌を詠むと梅が一晩で飛んでくる
菅公が藤原氏に疎まれ京を去ることになり、お気に入りの梅の木に歌を詠んだ。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

最後の部分は「春を忘るな」であるという説もあるのだが東風が吹くころになったら自分がいなくても春を忘れずに花を咲かせるように言い聞かせているような意味だろうか。東風が吹くころに匂いを京からはるか西にある大宰府に届けろということだったらかなりの難題ではあるが。
それを聞いた梅が一晩にして大宰府の邸にまで飛んできたという。「飛び梅伝説」である。梅の木を呼びつけるなどもし本当なら生前からやはりとんでもない能力の持ち主である。

そして怨霊に
大宰府に飛ばされてからの道真は目立った功績等もなかったようで2年後の903年に没している。そのまま大宰府の地に葬られる。享年59歳。
ここで終わっていれば左遷された貴族の末路で終わっていたのだろうがここからがあまりにすごい。
909年 道真を追い落とした藤原時平が39歳で病死
913年 こちらも道真失脚の一端を担ったといわれる源光が狩りに出た際に泥沼で溺死
923年 醍醐天皇(道真が右大臣に任ぜられたときや左遷されたときの天皇)の皇子で東宮だった保明親王が21歳で薨去
925年 保明親王の息子の慶頼王が5歳で卒去

これだけでも相当不気味である。しかし更なる災いが宮中に起こる。

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