仏像は美術品か

前回触れた東寺展もそうだが仏像が持ち出される機会が最近増えたように思う。
そこで破損したとかなら許しがたいが(そもそもわたしの許しは必要ないけど(^_^;))そういうことも聞かないということは当然ながら輸送には細心の注意が払われているのだろう。専門のプロ集団がいるという話も聞いたことがある。
だが、仏像を「美術品」として眺めるということは何か違うような気もしていた。
それでも行ける範囲で仏像が見られると聞けば行ってしまうのだけどこの「何か違う」というのが何なのかを考えてみたい。

仏師という存在
そもそも仏像を彫った人はその時代の芸術家というわけではない。平安時代以降、仏像は仏師と呼ばれる人々が作っていた。身分としては僧に近い。人によっては彫るごとに経を唱えていたとも言われる。木材を見ればそこに仏の形が浮かんでくるというのが本当かはわからないが彼らは後世に残る美術品を作りたいと思っていたのかというと(そういう人もいたかもしれないけど)それ以上の思いがあったのではないだろうか。

仏像と信仰
仏像とは本来寺社に安置され、参拝者の祈りの対象になるべきもののはずだ。(祈りと書いてしまうと仏教的に語弊がある気もするが大多数の人はあの場所で手を合わせて祈っているように思う)
やはり寺社の堂内という場所にあってこそ人々はその前で手を合わせ、人によっては頭を下げる。あの荘厳な雰囲気と絶対的な威圧感は行った人間でなければわからないはずのものだ。
初めて一人で訪れたとき、その仏の超えてきた圧倒的な年月の前にまだ15歳だったわたしは自分という人間の小ささを思い知った。あまりに鮮明な記憶だった。

博物館の仏像
だが博物館に展示された仏像は違う。完全に信仰から切り離されて美術品として人々に鑑賞されている。
寺社が造った博物館なみの立派な宝物館だったりするとその前に賽銭箱が置かれていたりもするがそれにはもはや違和感しかない。
確かにそこは美術品を収蔵しておくには
最適な場所なのかもしれない。温度湿度ともに常にコントロールでき、光も自在に遮れる。今後も長い年月残していくためにはこれ以上の環境はない。
それが間違っていないのはわかっている。

でもそこにはあの臨場感がない。

本当にその一言に尽きるのだ。
博物館の仏像に対して頭を下げる人間はいない。手を合わせる人もほとんどいない。
多くの人は顔を上げてその様式を観察し彫刻の美しさに感嘆する。ものによってはわずかながらそこに色が残っているかもしれない。博物館ならばそのわずかな痕跡も見られるだろう。そして以前の彩色豊かな姿を想像もできるかもしれない。
だけどそれだけだ。
信仰から切り離されてしまった仏像にそれ以上はない。
そして人々はその前を通り過ぎて次の美術品に目を移す。
そうやってときにはガラスケースにさえ入れられてしまった仏像はもう生きてはいない。少なくともわたしはそう思う。

今後文化財保護の観点からしてもそうやって「保存」されていく仏像は増えるんだろう。
わたしが神社仏閣巡りをするきっかけになったお堂の仏像もまた、一部はガラスケースに入れられてしまい、もう勢揃いした姿を拝むことは二度とできない。
それが残念でならない。

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